生活と仕事が分離したところに、
美しいものは生まれない。
それが日本の伝統というものだろう。
福森さんのような職人に接するとき、
明日の文化は都会からではなく、
足がしっかりと地についた人々の中に、
鬱勃と興って来るに違いない、そう私は信じている。
白洲正子著『日本のたくみ』(新潮社)
“土楽さんの焼きもの 福森雅武”より
福森雅武氏は、伊賀で江戸時代から続く窯元「土楽」の7代目当主です。(現在は4女の道歩氏が8代目を継承)
「土に愛されている人」と、道歩さんは福森さんを評して仰います。
轆轤が巧い、のだそうです。
福森さんの器は、軽くて洒落っ気があり、何を盛っても料理を美味しく感じさせます。
料理人としても高名なお二人ですから、もしかしたら成形の時には献立を思い浮かべていらっしゃるのかも知れません。
多くの方に愛されている福森さんの仕事は、農業と共にある、暮らしの延長にあります。
暦に添った夏の仕事と冬の仕事を続ける上で、遅霜や日照りに悩まされることもあったのではないでしょうか。
「花の始まりは、神様に家に来て頂く時に、お印を掲げた。それが花」
そう仰る福森さんは毎朝の日課として山を歩き、心惹かれる花を誰に見られなくても、日々床に捧げているそうです。
実は、本の中で紹介される花は、器や道具に生けられており、ほとんど花器として作られたものは使われていません。
きっと、日常の暮らしの延長に、花が存在しているのでしょう。
代表作である野仏の野焼きに入る前、福森さんは
「触ると人間の業が出る。捨てて、捨てて、捨てたら自分が出てくる。そこに至った」と語られました。
捨てて残るものとは何でしょう。
福森さんの在り方は、現代に生きる最後の「文人」であるのでは、と思います。
「游行」の132頁は、逆縁に遭い大病をされ、在野僧となられた、稀代の文人の人生の秋を受け止めた4年間の軌跡です。
めぐりめぐり行きて誕生す。
その言葉を思う時、燃え盛る紅葉は不動明王に。
閑けさに満ちた白玉椿は菩薩に見えてくるのです。
始まりの頁と終章が円相を成す構成に、一条の光が射すようです。
「游行」福森雅武の花
企画・編集 渡邊航
写真 野口さとこ
発行 株式会社 亥辰舎
書籍 | 『游行』
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